2026年10月2日、BUSINESS INSIDER JAPANが、損害保険ジャパンの人事制度の改定を報じました。10月1日から、社員に毎年転勤の意向を確認し、本人の同意がない転居を伴う転勤は、原則として行わないという内容です。記事の見出しには「『会社都合の転勤』はもう限界?」とあり、内定者からも歓迎の声が紹介されていました。
働く人の気持ちに寄り添った、時代に合った制度だと感じた方も多いと思います。ですが私は、この記事を読んだ中小企業の経営者が、「これからは転勤に本人の同意が要る」と思い込んでしまうことのほうが心配になりました。
今日はそれについて、私の持論をお話しします。
目次
目次
- ニュースの概要
- 損保ジャパンの制度改定は、転勤する社員への手当の新設・拡充とセットで行われている
- 勤務地を限定していない社員には、就業規則の定めにもとづき、本人の同意がなくても転勤を命じられる
- 全国に拠点を持つ会社は、業績に必要な転勤を同意なしで命じてよい
- 会社は転勤を命じる前に、社員の介護・育児などの事情を聞く
- 会社は転勤のルールを規程に定め、転勤する社員には手当で報いる
- よくある質問
- まとめ
ニュースの概要
損害保険ジャパンではこれまで、勤務地の区分を「限定なし」「ブロック限定」「地域限定」の3つに分け、区分ごとに転勤の範囲が決まっていました。この区分は、結婚や介護などの事情がない限り、原則として後から変えることができませんでした。
10月からは、転居を伴う転勤について、社員が毎年「同意・非同意」を申告し、会社はその申告をもとに異動を決める仕組みに変わりました。人事部長の白尾俊人氏は、「従来のような会社都合による一方的な転勤は、会社と社員の関係性として限界を迎えている」と説明しています。
記事では、マイナビが2027年卒の学生に行った調査も紹介されています。「転勤はしたくない」と答えた学生は34.5%、「行きたくない会社」の2位は「転勤の多い会社」の33.3%で、この割合は6年連続で増えています。損保ジャパンの2027年卒の内定者約460人のうち、約4割が「全国どこでも転勤可能」、約2割がエリアを限定した転勤が可能な「ブロック勤務」を選び、残る約4割は転居を伴う転勤を望んでいません。
損保ジャパンの制度改定は、転勤する社員への手当の新設・拡充とセットで行われている
まず、損保ジャパンの取り組みそのものは立派だと思います。約3年前から準備を進め、社員がライフステージの変化に合わせて毎年選び直せる仕組みにしたのですから、社員の側から見れば安心できる制度です。
ただ、記事を最後まで読むと、見出しだけでは見えないことが書いてあります。損保ジャパンは、転勤する社員への待遇を手厚くしているのです。単身赴任手当などの既存の手当を見直したうえで、新たに月5万円から10万円の「転勤手当」を設け、転居するときには20万円の「転勤一時金」を支給します。転勤に同意したのに、結果として転居を伴う異動にならなかった人にも「転勤同意手当」を出します。
つまりこの制度は、転勤をやめる制度ではありません。転勤してくれる社員にはしっかり報いる仕組みとセットになっています。ここを読まずに「本人が嫌なら転勤させられない時代になった」と受け取ってしまうと、中小企業の経営者は判断を間違えます。
勤務地を限定していない社員には、就業規則の定めにもとづき、本人の同意がなくても転勤を命じられる
ここで、法律の話を整理しておきます。勤務地を限定する約束をせずに雇った社員であれば、就業規則に「業務の都合で転勤を命じることがある」という定めがある会社は、原則として本人の同意がなくても転勤を命じることができます。損保ジャパンが同意を取ることにしたのは、法律がそう求めているからではなく、会社が自分で選んだ経営判断です。
転勤についての代表的な判例が、東亜ペイント事件(最高裁第二小法廷・1986年7月14日判決)です。全国に営業所を持つ会社で、勤務地を限定せずに採用された営業担当の社員が、大阪から名古屋への転勤を拒んで懲戒解雇されました。最高裁は、就業規則に転勤の定めがあり、実際に転勤も頻繁に行われていたことなどから、転勤命令は権利の濫用に当たらないと判断し、命令を無効とした高裁の判決を破棄しています。
ただし最高裁は、次のような特別な事情がある場合は、転勤命令が権利の濫用として無効になるとも示しています。
- 業務上の必要性がない場合
- 嫌がらせなど、不当な動機や目的で命じた場合
- 社員に、通常我慢すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合
なお、ここでいう業務上の必要性は、「その人でなければ務まらない」ほど高いものである必要はなく、人の適正な配置や能力開発など、会社の合理的な運営に役立つものであれば認められるとされています。そのうえで、次の3つには注意が必要です。
- 勤務地を限定する合意をして雇った社員には、その範囲を超える転勤を、本人の同意なく命じることはできません。地元採用で「転勤はない」と口頭で伝えていた場合なども、限定の合意があったと判断されることがあります
- 2024年4月からは、雇用契約を結ぶとき(有期契約の更新時を含む)に、就業場所と業務の「変更の範囲」まで書面で示すことが義務になっています
- 育児・介護休業法では、転勤によって子育てや家族の介護が難しくなる社員について、会社はその状況に配慮しなければならないとされています。配慮とは、転勤させないことではなく、子育てや介護の状況を把握し、本人の意向をくみ取ることです
特に3つ目は大事です。事前に事情を聞かず、家族に介護が必要だと分かったあとも実情を調べなかった会社の転勤命令が、配慮が足りないとして無効とされた裁判例もあります(ネスレ日本事件・大阪高裁2006年4月14日判決)。つまり、同意は要らなくても、事情を聞くことは法律上も求められているのです。
全国に拠点を持つ会社は、業績に必要な転勤を同意なしで命じてよい
そのうえで、私の考えをお伝えします。全国に支店や営業所を持つ会社であれば、勤務地を限定していない社員に対して、業績を伸ばすために必要な転勤は、会社の判断で命じてよいと考えています。同意まで取る必要はありません。
知らない土地で、知らないお客さんと、知らない同僚と一から仕事をすることは、社員にとって大きな経験になります。移動した距離の分だけ経験値が上がり、人間性も豊かになる、という考え方もあります。昔から「可愛い子には旅をさせろ」とも言います。
逆に、本人の同意がないと転勤させられないとなると、会社は人を動かせなくなり、拠点ごとの人の配置が固まってしまいます。同じ拠点にいる限り、社員が積める経験も同じ範囲にとどまります。
会社は転勤を命じる前に、社員の介護・育児などの事情を聞く
ただし、同意は要らなくても、意見は聞くべきです。親の介護をしている、小さな子どもがいて配偶者も働いている、子どもが受験を控えている。こうした事情を知らないまま、ある日突然「来月から岡山営業所に行ってくれ」と言えば、社員は「会社は自分の生活を何も見ていない」と感じます。3章で書いたとおり、育児や介護の事情を聞かずに命じた転勤は、法律上も無効になるおそれがあります。
私は、会社の仕組みを「ハード(制度・ルール)」と「ソフト(日々の対話や声かけ)」の両輪で考えるようにお伝えしていますが、ここはソフトの部分です。年に1回の面談で、家族の状況や、今後数年の間に転勤が難しくなりそうな事情がないかを聞いておきます。そして転勤を命じるときは、社長や上司が本人と直接会って、「なぜあなたに、この拠点に行ってほしいのか」を自分の言葉で伝えてください。同意を取るためではなく、命じる側の責任として説明するのです。
会社は転勤のルールを規程に定め、転勤する社員には手当で報いる
ハードの部分は、転勤のルールを先に決め、転勤してくれる社員に報いる仕組みです。損保ジャパンが月5万円から10万円の転勤手当を設けたように、転勤は社員と家族にとって大きな負担です。中小企業で同じ金額を出すのは難しくても、次の3つは決めておけます。
- 就業規則に、業務の都合で転勤を命じることがあると定める
- 雇用契約書に、就業場所の「変更の範囲」を書く(例:雇入れ直後は姫路本社、変更の範囲は会社の定める全国の事業所)
- 賃金規程に、単身赴任手当や赴任手当、引っ越し費用の会社負担を定める
2つ目の「変更の範囲」は、ここに書いた範囲が転勤させられる上限にもなります。たとえば「兵庫県内の全営業所」と書けば、県外への転勤には本人の同意が必要です。将来、拠点を増やす予定があるなら、書き方を慎重に決めてください。
転勤があることを入社前から書面で示し、転勤した人には手当で報いるのです。ルールが先に決まっていれば、転勤を命じられた社員も、「会社の都合で突然振り回された」とは感じにくくなります。
よくある質問
Q. 転勤を命じた社員に断られた場合、懲戒処分にできますか?
A. 就業規則に転勤と懲戒の定めがあり、転勤命令が権利の濫用に当たらなければ、正当な理由のない拒否は業務命令違反として、懲戒処分の対象になりえます。ですが、事情を聞かないまま懲戒に進むのは非常に危険です。断る理由が親の介護や子どもの病気であれば、転勤命令そのものが無効と判断されることがあります。また、転勤命令が有効でも、判断に必要な情報を説明しないまま懲戒解雇した処分が無効とされた裁判例もあります(メレスグリオ事件・東京高裁2000年11月29日判決)。まずは断る理由を聞き、時期や行き先を調整できないかを話し合ってください。
Q. 求人票に転勤があることを書くと、応募が減りませんか?
A. 減るかもしれません。ですが、2024年4月からは職業安定法のルールで、求人票や募集広告にも就業場所の「変更の範囲」を明示することが義務になっています。「転勤あり」と一言書くのではなく、「変更の範囲 会社の定める全国の事業所」のように範囲を示す必要があります。転勤があるのに書かずに採用すれば、入社後に「聞いていない」というトラブルになり、早期の離職にもつながります。そのうえで、転勤した人にどんな手当があり、どんな経験が積めるのかまで書いておけば、それを読んだうえで応募してくる人とは、入社後の「聞いていない」は起きません。
まとめ
損保ジャパンは、本人の同意がない転居を伴う転勤を原則として行わない制度に改めました。ただしその制度は、月5万円から10万円の転勤手当や20万円の転勤一時金など、転勤する社員への手厚い待遇とセットです。
法律上は、勤務地を限定していない社員であれば、就業規則の定めにもとづき、本人の同意がなくても転勤を命じられます。同時に、転勤は社員が経験を積み、成長する機会でもあります。そのうえで必要なのは、転勤のルールと手当を就業規則・雇用契約書・賃金規程に書いておくこと(ハード)と、命じる前に社員の事情を聞き、なぜその人に行ってほしいのかを伝えること(ソフト)です。この両輪がそろっていれば、同意を取らずに命じた転勤でも、社員が前向きに受け止めやすくなります。
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