これまで2回のブログで、ある企業で見つかった労務リスクをご紹介してきました。就業規則に眠っていた退職金規程、そして「指示していないから」を理由に払われていなかった残業代。今日はその続き、同じ企業の後継者から相談を受けた、もう一つの話です。先代の経営者が急に亡くなり、会社を引き継ぐことになったそうです。
最初にやったのは、給与一覧表と就業規則の確認です。項目自体はごく普通でしたが、中身を一つずつ確認していくと、説明のつかないことばかりが出てきました。
後継者は困り果てていました。従業員から「なぜあの人より自分の手当が少ないんですか」と聞かれても、答えられる材料が何もないのです。先代が頭の中だけで決めていたルールは、先代とともに会社から消えていました。
目次
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「決め方」が先代の頭の中にしかなかった問題
中小企業、特に創業社長が長く経営してきた会社では、賃金や手当の決め方が「社長の頭の中」にしかないというケースが珍しくありません。
役職手当はその人の頑張りを見て。皆勤手当は「真面目に来てくれているから」。資格手当は「取ってくれたから、お祝いの意味も込めて」。どれも、先代なりの理由はあったはずです。ただ、その理由は言語化されず、規程にも記録されず、後継者にも従業員にも共有されないまま、先代の頭の中だけに残っていました。
今回のケースで特に危うかったのは、皆勤手当です。実際の出勤状況と連動しているのか、遅刻や早退があった月はどう扱うのか、そのルールがどこにも明文化されていませんでした。支給基準があいまいな手当は、いざトラブルになったときに、会社側が説明責任を果たせません。
給与計算の実務を引き継いだ担当者の言葉も印象的でした。「前任からそのまま引き継いだだけで、中身までは分かりません」。これは担当者の落ち度ではありません。属人化した賃金体系は、そもそも引き継げる形になっていなかったのです。
「支給することがある」は、なぜ義務に近づくのか
手当と並んで見えてきたのが、賞与の問題でした。就業規則の文言だけを読めば、支給するかどうかは会社の裁量。業績が厳しければ、見送ることもできる、教科書通りの規定です。
しかし労務の世界では、条文の文言だけでなく「実際にどう運用されてきたか」も、重要な判断材料になります。これを「労使慣行」と呼びます。同じ内容の支給を、長期間・継続的に・異議なく繰り返してきた場合、そこに「労使双方の共通認識」があったとみなされ、就業規則の文言以上の拘束力を持ってしまうことがあります。10年間、毎年欠かさず夏冬の賞与を支給してきた——この事実だけで、「もらえて当然」という期待が、従業員の側に積み上がっていきます。
つまり、就業規則の文言は「裁量」のままでも、実態としては支給義務に近い状態が生まれていると判断される可能性があるということです。昇給も同じ構造でした。「毎年4月に能力・勤務成績等に応じて実施する」という裁量規定でありながら、実態はほぼ自動的に毎年実施されてきました。経営が厳しくなり、この会社は初めて昇給を据え置く決断をしましたが、その理由をスタッフに説明する機会は設けられていませんでした。「もらえて当然」だったものが、何の説明もなく止まる。人は結果そのものより、説明がないことに不信感を抱きます。
両方の根っこにあるのは、評価の物差しがないこと
手当のブラックボックス化も、賞与・昇給の労使慣行化も、根っこは同じです。「誰が、どんな基準で評価され、それが金額にどう反映されているのか」を説明する物差しが、この会社にはそもそも存在していませんでした。
・「なぜあの人は手当が多いのか」と聞かれても答えられない
・評価の物差しがないため、給与や賞与の差が「好き嫌い」に見えてしまう
・先代を知る古参社員と、承継後に入った社員の間で「聞いていた話が違う」という不満が生まれやすい
・根拠のない差は、いつか必ず「なぜあの人だけ多いのか」という不満に変わる
賞与は、本来「頑張った人に報いる」ための制度です。しかし評価の仕組みがないまま長年運用を続けると、「頑張りに応じた報酬」ではなく、「毎年もらえる固定給の一部」として認識されてしまいます。この認識が一度定着すると、後から評価制度を持ち込んでも、簡単には受け入れてもらえません。公平性を説明できない賃金制度は、法律違反という話でなくとも、確実に組織の信頼を蝕んでいきます。
今からできること——仕組みと対話の両輪で
ここまで読んで、不安になった経営者もいらっしゃると思います。ですが、慌てる必要はありません。ルールを見える化しないまま放置すれば、困るのは後継者だけではありません。理由のわからない金額を受け取り続ける従業員も、同じように困っています。まずやるべきことはシンプルです。
・現在支給している手当・賞与・昇給を一覧化し、対象者・金額・支給条件を洗い出す
・就業規則や賃金規程に、支給基準が明文化されているかを確認する
・「裁量」の規定が、実態として「慣行」になっていないかを確認する
・評価の仕組みがなければ、まずは簡易的な評価基準づくりから着手する
ここで大事なのは、洗い出した結果をもとに、すぐに全部を変えようとしないことです。承継や見直しのタイミングは絶好の機会ですが、いきなり手当を減らしたり、賞与の基準を厳しくしたりすれば、確実に反発を招きます。従業員からすれば、根拠が曖昧だったとしても「もらえていたもの」には変わりないからです。
これは「仕組み(ハード)」だけの話ではありません。基準を作ったら、その基準をスタッフにきちんと伝える。なぜこの金額なのか、なぜ今年は据え置きなのか、対話する。ここまでやって初めて、トラブルの芽は消えます。制度を整えるだけでも、対話を重ねるだけでも、組織の問題は解決しません。仕組みと対話、両方が噛み合って初めて、経営者もスタッフも安心できる会社になります。私はこの両輪を、ずっと大切にしています。
よくある質問
Q. 業績が厳しいので賞与を減らしたいのですが、規定に「支給することがある」と書いてあれば問題ないですか?
A. 規定の文言だけでは判断できません。過去の支給実績・支給水準・従業員への周知の仕方などを総合的に見て、労使慣行が成立していると判断される可能性があります。減額そのものを否定するものではありませんが、根拠となる業績データを整理し、事前にスタッフへ丁寧に説明する準備をしてから進めることをおすすめします。
Q. 評価シートを今から作るのは、うちのような小さな会社には大げさな気がします。
A. 最初から完璧な評価制度を目指す必要はありません。「何を頑張ったら評価されるのか」を数項目でよいので言葉にするだけでも、属人的な運用から一歩抜け出せます。まずは自社の規模に合った、シンプルな基準づくりから始めることをおすすめします。
まとめ:賃金は「決め方」より「決め続け方」が問われる
今回の話の教訓は、シンプルです。先代が頭の中で決めていた手当のルールも、就業規則に「裁量」と書かれた賞与・昇給のルールも、何年も同じように運用し続ければ、実態がルールを追い越していきます。
「今までそうだったから」「規定にそう書いてあるから」——この2つの思い込みほど怖いものはありません。規定と実態のズレは、業績が良いうちは表面化しません。経営が苦しくなり、いよいよ見直しが必要になったそのタイミングで、初めて牙をむきます。
まずは自社の手当・賞与・昇給の「規定」と「実態」を、並べて確認してみること。それだけで、見えるリスクがあります。
「これって違法?」「トラブルになる前に相談したい」——そのタイミングが一番大事です。
姫路の中小企業の現場を知る社労士が、一緒に整理します。

