歯科技工所を若手スタッフに設立させる荒療治、姫路の採用定着士が見た院長の覚悟

歯科技工所を若手スタッフに設立させる荒療治、姫路の採用定着士が見た院長の覚悟

ある歯科医院の院長が、面白い挑戦をしていました。話を聞けば聞くほど、その大胆さと覚悟に引き込まれました。

これまで個人事業として歯科医院を営んできましたが、今回、新たに歯科技工所(株式会社)を立ち上げることになりました。その設立実務を、院長自身ではなく、30代、40代の歯科技工士2人に任せたのです。定款の作成も、役所への届出も、全部自分たちで調べさせます。事務担当のサポートはつけますが、答えは教えません。

「大変そうだけど、それが一番の学びになる」と、その院長は笑っていました。私はこの話を聞いて、素直にすごいと思いました。多くの経営者は、法人化のような重要な意思決定ほど自分で抱え込みたくなるものだからです。


目次

  1. 「経営から離れる準備」という逆説的な仕事
  2. 小さな怪我を経験させておかないと、取り返しがつかない大きな怪我をする
  3. 「院長がいないと回らない」を放置しない
  4. 任せきりにはしない。専門家というセーフティネット
  5. よくある質問

「経営から離れる準備」という逆説的な仕事

この院長はこんなことを言っていました。

「自分の役割は、経営から離れる準備をすることだと思っている」

最初にこの言葉を聞いた時、正直、意外でした。個人事業として医院を大きくしてきた院長ほど、自分がすべてを決める立場であり続けたいと考えがちだからです。だが話を聞くほどに、この言葉の裏にある覚悟の深さが伝わってきました。

経営者の仕事といえば、多くの人は「自ら陣頭指揮を執ること」をイメージするでしょう。しかしこの院長が目指していたのは真逆でした。自分がいなくても回る組織をつくることこそが、自分の仕事だと考えていたのです。

だからこそ、新会社の設立という重要な意思決定の場に、あえて自分は前面に出ず、若手に手続きそのものを任せました。指示待ちの人材を、当事者に変えるための、逆説的な一手です。

組織とは、将棋やチェスの盤面のようなものだと私は考えています。それぞれの駒に役割と強みがあり、経営者はその一つの駒であると同時に、盤面全体を見渡す立場でもあります。すべての駒を自分だけで動かそうとすれば、盤面はいずれ行き詰まります。若手という駒に、盤上での判断そのものを経験させること。それが、この院長の狙いでした。


小さな怪我を経験させておかないと、取り返しがつかない大きな怪我をする

この話をしていて、私はふと子育てと似ていると感じました。

子どもがやることなすこと、親が先回りしてすべて手を出してしまうと、その子は失敗から学ぶ機会を失います。多少転んでも大した怪我にならないうちに、小さな失敗を経験させておいた方がいいでしょう。そうすることで、本当に大きな怪我を避けられるようになります。

ずっと温室の中で育てられた子どもは、いざ一人で外に出た時、何もできなくなってしまいます。組織における人材育成も、まったく同じ構造だと思います。

経営者が良かれと思ってすべてを抱え込み、スタッフには「安全な仕事」しか与えないでいると、いつまで経っても自分で考え、決め、責任を持つ経験が積まれません。多少の失敗はあっても、任せて、経験させて、支える。それが結果的に、大きな失敗を防ぐことにつながります。

これは特別な話ではなく、多くの職場で起きていることです。「自分がやった方が早い」という理由で、院長や管理職がすべての判断を巻き取ってしまう。その結果、スタッフは指示を待つことに慣れてしまい、いざという時に自分で決められません。守っているつもりが、成長の機会を奪ってしまっているケースは、決して珍しくありません。


「院長がいないと回らない」を放置しない

個人事業として運営してきた歯科医院では特に、「院長がいないと何も決まらない」という状態に陥りやすいものです。診療方針も、採用も、お金の管理も、すべての意思決定が院長一人に集中してしまいます。

この状態は、短期的には効率が良いように見えます。だが、院長が体調を崩したり、事業を法人化・拡大するタイミングを迎えたりした瞬間に、組織は一気に立ち行かなくなります。

この院長のように、新会社の設立という節目を利用して、意図的にスタッフへ意思決定の経験を積ませていくことは、目先の効率を犠牲にしてでも取り組む価値のある、長期的な組織づくりの投資だと言えます。

後継者不足や事業承継の悩みを抱える医院・中小企業は多いものです。だが、後継者が育たない本当の理由は、優れた人材がいないことよりも、意思決定を経験する機会そのものが与えられてこなかったことにあるケースが少なくありません。次の世代に経営を渡したいと考えるなら、渡す直前になって慌てて任せるのではなく、日頃から小さな意思決定を積み重ねさせておく必要があります。


任せきりにはしない。専門家というセーフティネット

ここで誤解してほしくないのは、「何でも任せればいい」という単純な話ではないということです。無責任に丸投げすれば、それはただのリスク放置になってしまいます。

私がこの院長を見ていて感心したのは、ハード(任せる仕組みや手順)とソフト(信頼して見守る姿勢)の両輪がしっかり揃っていたことです。若手に任せながらも、法人設立の要所要所では専門家である私たちのような社労士や、事務担当者がバックアップにつく体制を整えていました。

具体的には、個人事業の歯科医院と新設する歯科技工所(株式会社)との兼務関係、給与や役員報酬の切り分け、社会保険の適用関係といった専門的な部分は、社労士のような外部の専門家が事前にチェックしておきます。若手が挑戦する「意思決定の部分」と、専門家が支える「制度・手続きの部分」を切り分けておくことで、院長も若手も安心して前に進めます。

子どもを危険な場所で一人遊びさせるのではなく、見守りながら小さな挑戦をさせる。それと同じで、専門家がセーフティネットとして後ろに控えているからこそ、思い切って任せることができます。任せることと、放り出すことは、まったく違います。


よくある質問

Q. どんなスタッフにでも、いきなり大きな裁量を任せていいのですか?

A. いきなり大きすぎる裁量を渡すのはおすすめしません。まずは小さな意思決定から任せ、失敗しても致命傷にならない範囲で経験を積ませることが大切です。段階を踏みながら任せる範囲を広げていくのが現実的です。

Q. 院長が「離れる準備」をすると、組織はバラバラになりませんか?

A. 離れる準備とは、放任することではありません。理念や方針を明確に示した上で、実務の判断をスタッフに委ねるということです。方向性という軸がぶれなければ、任せることで組織はむしろ自律的にまとまっていきます。

Q. 個人事業から法人を新設する際、特に気をつけることはありますか?

A. 既存の個人事業と新設する法人の間で、人・お金・業務がどう行き来するのかを、早い段階で整理しておくことが重要です。兼務するスタッフの労働時間管理や、報酬の支払い元を曖昧にしたまま進めると、後から社会保険や税務の面で是正が難しい問題につながることがあります。


まとめ

院長がすべてを抱え込む組織は、一見安定しているように見えて、実は院長一人に依存した脆い組織でもあります。小さな失敗を経験させながら、スタッフに意思決定の機会を委ねていくことは、遠回りに見えて、実は組織を強くする一番の近道です。

大切なのは、丸投げにせず、専門家というセーフティネットを後ろに置きながら任せること。信頼して任せる姿勢(ソフト)と、支える仕組み(ハード)、その両輪があってこそ、若手は安心して挑戦できます。

経営者がいつまでも盤面のすべての駒を自分で動かし続ける組織に、未来はありません。小さな怪我を経験させながら、少しずつ手を放していく。その勇気こそが、次の世代が育つ組織をつくる、一番の近道だと私は思います。

「院長がいないと回らない」組織から抜け出したいと感じたら、ぜひ当社にご相談ください。

筆者プロフィール

泉 正道(いずみまさみち)|特定社会保険労務士/採用定着士/生成AIアドバイザー

姫路を拠点に中小企業延べ150社以上へ伴走。採用・定着・労務の相談累計3,000件超(2026年6月現在)。北は福島、南は佐賀まで顧問先があり、全国オンライン対応。

「採用より定着が先」——これが口癖であり、信念。耳が痛くても言い続ける。親に与えてもらった環境や収入を「全て自分の力」と誤解する2代目社長に説教して解約された経験あり。それでも伝え続けるのが私の役目。

支援の軸は制度(ハード)と対話(ソフト)の両輪。就業規則や評価制度を整えるだけでも、研修や面談を繰り返すだけでも、人の問題は解決しない。両方が噛み合って初めて、人が辞めない組織が動き出す。伴走とダメ出しができる社労士。

生成AI支援では「研修を受けた企業の9割が1ヶ月後に何もしていない」という現実に向き合い、経営者のPCを直接触り、当日に課題を解決する「実装型」の伴走を展開。商工会・商工会議所・大手生命保険会社でのセミナー講師としても精力的に活動中。