先日、ある企業の経営者から相談を受けました。20年以上勤めてきたベテランスタッフが退職することになり、本人からこう言われたそうです。「退職金はもらえますよね?」。
経営者は答えました。
「あなたの雇用契約書には『退職金なし』と書いてある。だから払う予定はありません」と。
ところが、就業規則の現物を確認してみると、状況は一変しました。そこには、退職金の規定がはっきりと明記されていたのです。それは、事務室の鍵付きの引き出しの中で、何年も静かに膨らみ続けていたリスクでした。
「契約書に書いていないから大丈夫」——その思い込みが、一番危険です。
目次
目次
- なぜ「雇用契約書に書いてあるから大丈夫」が通用しないのか
- 就業規則は「知らないうちに」効力を持っている
- これは1人の問題ではなく、会社全体の潜在リスクです
- 今すぐ確認すべきこと、そして続けるべきこと
- よくある質問
なぜ「雇用契約書に書いてあるから大丈夫」が通用しないのか
多くの経営者が誤解していることがあります。「雇用契約書に書いてあることが、その社員に適用される全て」という思い込みです。
労働契約法12条には、こう定められています。「就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする」と。無効になった部分は、就業規則で定める基準による、とも続きます。
これを「就業規則の最低基準効」と呼びます。就業規則は、会社で働く全員に共通して適用される「土台」です。個別の契約書は、その土台より条件を悪くすることはできません。土台を下回る条件は、その部分だけ効力を失い、就業規則の内容に置き換わります。
つまり、雇用契約書に「退職金なし」と書いてあっても、就業規則に「退職金あり」と書いてあれば、就業規則の方が優先して適用されるということです。雇用契約書は「個別の約束」、就業規則は「会社全体のルール」。ただし、雇用契約が全体のルールより不利な部分は、原則として通用しません。
これは退職金に限った話ではありません。基本給、賞与、休日日数、手当。就業規則より不利な条件を個別の契約書に書いていた場合、同じことが起こりえます。「うちは契約書ベースでやっているから」という運用そのものが、実はリスクの温床になっていることがあるのです。
経営者からすれば、「個別に合意して、本人もサインしているのに」と納得がいかない気持ちもよくわかります。ですが法律は、労働者を保護するために、会社全体のルールを下回る個別合意には歯止めをかけています。ここを知らずに契約書だけを信じるのは、土台のない家を建てるようなものです。
就業規則は「知らないうちに」効力を持っている
ここで多くの経営者がショックを受けるポイントがあります。「読んだこともない規定」「作った覚えもない条文」が、会社に効力を持ってしまっているという事実です。
先ほどの企業も、まさにそうでした。退職金規程は先代経営者の代に作られたもので、今の経営者は中身を一度も確認していませんでした。就業規則は事務室の鍵付き引き出しにしまわれたまま、誰の目にも触れていませんでした。
これは「周知義務違反」の状態です。就業規則は、作って終わりではありません。労働基準法では、就業規則を労働者にきちんと知らせること(周知)が義務づけられています。周知されていない就業規則は、そもそも効力そのものが問われるケースもあります。
つまりこの企業は、「鍵のかかった引き出しの中に、誰も知らない退職金規程が眠っていた」という、ダブルの落とし穴を抱えていたことになります。存在を知らない。知らせてもいない。それでも、法的には効力を持ちうる。これが就業規則の怖さです。
周知の方法は、実は難しいものではありません。誰でも見られる場所に掲示する。書面で配布する。共有フォルダやグループウェアに置いて、いつでも確認できるようにする。方法はいくつかあります。大事なのは「見ようと思えば見られる状態」を作ることです。
経営者が交代したタイミングも要注意です。先代が作った規程を、後を継いだ経営者がそのまま引き継いでいる会社は少なくありません。引き継いだのは会社の看板だけでなく、規程の中身とその責任も同じです。「自分が作っていないから知らない」は、法的には通用しません。
これは1人の問題ではなく、会社全体の潜在リスクです
今回のケースで、経営者が一番驚いていたのはここでした。
「って事は、退職金、社員全員に支給義務があるって事ですよね」。
その通りです。
就業規則の退職金規程は、特定の1人のために作られたものではありません。対象となる条件(勤続年数や雇用形態など)を満たす社員全員に、等しく適用されうるものです。
今回退職を申し出た1人に払うだけの話ではすみません。同じ条件で長く勤めてきた他のスタッフにも、同じ権利が発生している可能性があります。つまりこれは、「知らなかった」では済まされない、会社全体の潜在債務です。
帳簿にも見積もりにも載っていない負債。それが、鍵付きの引き出しの中で静かに膨らみ続けている。想像するだけで、背筋が寒くなる話だと思います。
しかも厄介なのは、この負債が「退職のタイミングで、突然、まとまった金額として顕在化する」という点です。日々の資金繰りには表れません。長く勤めたスタッフが辞めると決めた瞬間に、初めて金額として突きつけられます。備えのないまま向き合うには、あまりに重いテーマです。
M&Aや事業承継の場面でも、この手の「知らなかった規定」はよく問題になります。譲り受ける側からすれば、帳簿に載らない債務ほど怖いものはありません。承継を考えている経営者ほど、早めに就業規則の中身を洗い出しておくべき理由がここにあります。
今すぐ確認すべきこと、そして続けるべきこと
ここまで読んで、不安になった経営者もいらっしゃると思います。ですが、慌てる必要はありません。まずやるべきことはシンプルです。
・自社の就業規則の現物が「どこにあるか」を把握する
・退職金・賞与・手当など、契約書と食い違いそうな条文がないか確認する
・雇用契約書と就業規則の内容にズレがあれば、どちらが優先されるかを整理する
・古い規定が今の経営実態や資金繰りに合っているかを見直す
これは「仕組み(ハード)」の話です。ただ、仕組みだけ整えて終わりにしないでください。就業規則を見直したら、その内容をスタッフにきちんと伝える。なぜこのルールがあるのか、対話する。ここまでやって初めて、トラブルの芽は消えます。
制度を整えるだけでも、対話を重ねるだけでも、組織の問題は解決しません。仕組みと対話、両方が噛み合って初めて、経営者もスタッフも安心できる会社になります。私はこの両輪を、ずっと大切にしています。
よくある質問
Q. 就業規則を新しく作り直せば、古い退職金規程はなくなりますか?
A. 就業規則の変更にも、一定のルールがあります。特に退職金のように、労働者にとって不利益になる変更は、簡単には認められません。すでに発生している権利を一方的に取り消すことは難しいと判断される可能性が高いとされています。まずは現状の規定を正確に把握したうえで、専門家と一緒に進め方を検討することをおすすめします。
Q. うちは従業員10人未満で、就業規則を作った覚えがありません。それでも関係ありますか?
A. 常時10人未満の事業場は、就業規則の作成・届出義務がありません。ただし、義務がないだけで、独自にルールをまとめた文書や規程集が存在しているケースもあります。「うちには就業規則はない」と思い込む前に、社内に眠っている文書がないか、一度確認しておくと安心です。
まとめ:就業規則は「作った過去」より「今の中身」が大事
今回の話の教訓は、シンプルです。就業規則は、作った経営者だけのものではありません。会社を引き継いだ今の経営者も、その内容に責任を負っています。
「うちにはないはず」「契約書に書いてあるから大丈夫」。この2つの思い込みほど怖いものはありません。鍵付きの引き出しにしまわれたまま、誰にも読まれていない就業規則が、会社の未来を左右することもあるのです。
まずは現物を取り出して、中身を確認すること。それだけで、見えるリスクがあります。
「これって違法?」「トラブルになる前に相談したい」——そのタイミングが一番大事です。
姫路の中小企業の現場を知る社労士が、一緒に整理します。

